人生ぴよぴよ

メンヘラが社会復帰目指す

西陽

眠る場所、つまりマットレスにはお金をかけるべきだと思う。7時間から8時間程度はそこで過ごすし、私は怠け者だから休日になれば丸一日寝転がっていることもある。

最近枕が悪くて寝付きが悪いと思っていたけど、久しぶりに実家のマットレスに寝てみたら、マットレスさえ体に合っていれば枕はそれほど重要じゃないと感じた。体が吸い込まれていって、ぴったりとフィットするこの感触は何にも代え難い。今は実家にいないから常にこのマットレスで眠ることはできない。

私の城が懐かしい。床にそのまま置いたマットレス、読書灯、お気に入り机と椅子、手作りの化粧台、白い本棚。西日差し込む部屋だった。夏は暑くて仕方なかったけど、太陽の眩しさをうっとうしく感じたことは一度もない。

あのころとは生活圏も収入も違うから同じ生活はできない。でも、西日が差し込み蒸し蒸しと暑いあの部屋で、大好きなハヤシライスに赤ワインをドバドバ入れる時間が幸せだったな。誰にも侵されない私だけの城。

いつまでもいない

久しぶりに実家に戻ってきた。最近両親に会っていないな、と思ったのでなんとなく帰ってきただけだった。なんなら直前まで面倒臭いからやっぱりやめようかなとか考えていたけど、母から「帰ってくるの?」と催促のLINEがきたために帰るという選択をしたのだった。

そんな私に対して母は、病気になった、手術をする、と告げた。当たり前だが両親はそれなりに年を取ったから、病気になったり怪我をしやすくなったりするだろうと認識していた。頭で理解することと実際に目の前に突きつけられることは違う。夜中に胸が苦しくなり、救急車で運ばれたという。父が付き添ったらしいけど、父はそんな母に優しい言葉をかけただろうか。父の性格上、大した言葉はかけていないと思う。母は不安ではなかっただろうか。誰かに弱音を吐き出すことはできただろうか。私はどうして母が弱音を吐き出す対象となれなかったのだろう。ああ、そういえば私は母に、「仕事が辛い」と言ってしまったんだった。気を遣わせたかもしれない。あれさえなければ、もっと早くに、もしかしたら救急車で運ばれたその日に連絡をもらえたかもしれない。親不孝な娘だ。

自分のことで必死だったことを思い知った。打ちのめされている。今一番辛いのは母で、それを一番心配しているのは父だろう。私がこんなところで弱っていてはいけない。でも、目の前に立ちはだかる現実になかなか理解が追いつかない。頭では分かっていても心がついていかない、という表現はよく聞くが、今の私にとっては逆だ。心では何かを感じ取っている、でも頭が正確に理解しその後の行動まで決定することを拒んでいる。

決断することは辛い。今日の夕飯も、どこのスーパーに寄るかも、仕事のことも、将来のことも、どんなに小さくてもできれば決断したくない。昔から何かを決めることに大変なストレスを感じていた。

心で理解していることを、せめて文章に残したかった。でもまだ書くことすらできない。両親にとって私はどのような娘なのだろう。そしてどう思われたいのか。今はただ、母の身体が良い方向に向かうことを願ってる。きっと大丈夫。

倒れたままのペットボトルを拾い上げて

口をつけてそのまま飲みました。

丁寧な暮らしとは真逆の生活をしている。2リットルのお茶をドン・キホーテで箱買いして、そのまま口をつけて飲む。冷蔵庫に入れていないからぬるい。それでも冷やしたお茶を冷蔵庫から取り出してコップに注いで飲むよりもストレスが少ない。

メンヘラ病院で処方された睡眠導入剤を飲みきったので、昨日一昨日と薬なしで眠っている。眠りにつくまでが長い。その時間は苦痛。一生眠れないんじゃないかと思うけど、今のところ気づけば朝まで眠っている。薬を飲んでいるとアラームが鳴るよりも1時間早く目が覚めていたが、それもなくなった。なんなら眠ってしまえば眠りは深いようで、無意識のうちにアラームを止めてしまい、寝坊か!? と焦る。勝手に薬をやめるのは良くないと思うが、とりあえずあまり不便はなさそうなので様子を見るか…。病院代と薬代もバカにならない。自立支援制度は利用していた。それでも毎月病院に行けば塵も積もれば山となってしまった…。

自立支援制度といえば、友人に「お前みたいなやつが私たちの税金を無駄にしている」と言われたことがある。衝撃的だった。悲しみやショックという気持ちではなく、私は「支援されて当然」と認識していた。友人の発言はちょっとアレだけど、そう思われても仕方ない。彼女の目の前にいた私はそういう振る舞いをしていたんだろう。たくさんの人の支援を受けているのだから、治す努力が必要ですね、と反省した。だいぶ前の出来事だけど頭に残っている。念の為だけど彼女に悪気はなかったし今も仲が良いので全く不快な気持ちはない。

昔はやりたいことや夢がたくさんあった。ただ、今は毎日眠れて、三食じゃなくてもいいからまあ昼と夜くらいは食事ができて(コンビニでもファストフードでも構わない)、怒ったり泣いたりせずに過ごせればそれでいい。どのように毎日を過ごせば、気持ちを動かしていけば、そのように過ごすことができるのか…。何年経っても分からない。とりあえず最近は眠り、ご飯を食べている。あとは怒りたくないし泣きたくない。これが一番ハードルが高い。

 

しばらくブログを更新していなかったけど現状はたいして変わらず。報告すべきことがないのは良い報せだと認識しています。みなさんお元気ですか?

世界一やさしい教科書

仕事に行ったり行ってなかったりする。自分のメンタルの健康度の物差しとして「小説を読む体力があるか」というものがある。映画と違って自分で読み進めていく小説は場面を一つ一つ理解していかないと途端に意味がなくなるし、余裕がないと読めない。だから小説を読んでも気分が乗らないときは「落ちてるな」と思う。ただ、そういうときは大抵何かをしていないと不安や焦りに押し潰されそうになっているので、仕方なく実用書を読む。実用書なら分からないところは飛ばしてもあまり問題ないし、無駄に感情移入する必要はない。

最近やはり小説を読めなくなり、他に読みたい実用書もなかった私はエッセイを読んでいた。村上春樹のエッセイ以外ほとんど読んだことがない。読んだのはお笑い芸人のものを4冊、そのうち3冊はいまの自分にクリーンヒットした。もう1冊は自分と対極にあり、コンプレックスを刺激され腹が立った。そういう意味で言うと4分の4でクリーンヒットだったかもしれない。

最近Twitterで、精神科医は患者に週に1度通う必要のある趣味を持つことを勧めている、とかいうのを読んだ。それに通うことができるかできないかでメンタルの健康度を測ることができるそうだ。本当に精神科医がそう言ったかは知らないけれど上に書いたような、「小説を読むことができるか」というのは同じような指標だと思った。

最近はもっぱら電子書籍を読んでいる。Kindleを使用しているがWi-Fiモデルなので、外で新しい本を読みたくなってもDLできないという理由から家でまとめて何冊か電子書籍を購入して積ん読のようにKindleに溜めておくことが多い。なので、なんとなく暇だからKindleを起動し、目についた小説を読もうとして「やばい読めない」と気づくことが多い。そうなると数日後には仕事に行けないとか、眠れないとか、何かが起こる。これを週に1度とか、管理しやすいペースに持っていければメンタルのコントロールにも少しは役立つのだろうか。趣味までメンタルに絡めて考えようとしたら救いがないような気もする。

今日、私と同じようなメンタルの友人と話した。慰めたり励ましたりがどれだけ無駄か分かっているから私は口にしなかったし、相手も口にしなかった。会社行けねえ、まじしんどい、もう無理、どうしよう、ほんとやベー、眠いなあ。そんな会話をずっと繰り返して、無意味だしこの時間に働いている人に対して申し訳ないと思いながらも、不安や焦りを同じように感じているだろう人間と話すことは心地よかった。二人分の不安がそこにあるはずなのに、濃くなるどころか薄くなったような気がして。何の解決にもなっていないので所詮傷の舐め合いに過ぎない。

数年前にある人に言われた。「承認欲求は満たしあっていこうよ。傷は舐め合おう」。彼女、あるいは彼は私のような不安定さとは程遠い精神性だったけど、満たされていないのだろうなと思った。

当時彼女が揶揄したような承認欲求というものが今の私にはあまりない。例えば自撮りを載せていいねされたいとか、性的なツイートで関心を集めたいとか。自尊心が満たされたからなのか、大人になって諦めたからなのかは分からない。でも彼女の言ったことは外れていないと思う。誰かの寂しい気持ちや不安な気持ちは埋めてあげたいし、自信がなくなったとき私の言葉で少しでも何かを取り戻せるのなら何度でも声をかけたいと思う。私がされて嬉しいことをする。

だから私のことも満たしてください。

 

もうすぐ絶滅するという煙草について

n度目の書き出しだ。仕事に行けていない。仕事に行けたり行けなかったりする。

暇を持て余しているのでひたすら本を読んでいる。本にしろ服にしろゲームにしろ中古品は好かないのだけれど、お金がないので仕方なく古本を買った。できれば本は電子書籍で買いたい。しかしお金がない。お金がない私のような人間は少しくらい重くてもがんばって書籍を持ち歩くしかないのだ…。

本を読めば読むほど知識は私の血肉となる。そんなわけあるか。私のような空っぽの人間には何も留まらず、ただひたすらに流れ落ちていく。現在までに私自身で手に入れたものまでが鋭利な刃物で削られ抜け落ちていく気がしている。私が欲しているのは経験に裏づいた自信だ。経験なんて何もない私に本が与えられるものは限られている。過去の偉人たちが未来人に向けて知恵を授けようとしたその文字は、底無しの私に響かない。礎が必要だと今更になって時間する。

いつまでもいつまでも、明日こそはと思いながら眠る。昨日の自分を裏切った今日の自分。明日は何をするのか。

意外となにもできない自分

私はノロマだし、抜けてるし、よく転ぶし、詰めが甘いし、体力もない。「いろんなことができそうなのに意外となにもできない」とよく言われる。このように言語化すると酷いことを言われているようだけど、実際は私のことをよく知っている人しかこう言ってこないので、アホの子ほどかわいいみたいな意味だと思って前向きに捉えてる。

私は前述のとおり何もできない、怠慢が寝転んでいるような人間だ。それでも私のそばにいてくれる人は少なからず存在する。「あなたに何かを期待しているわけではないから」と言われるのだけど、裏返せば「そこにいてくれるだけでいいよ」ってこと、だよねえ?

自分には特別な価値があると信じていた瞬間もあった。時を経て凡人だと認識を改めて、今では人よりも劣っている部分が多いと理解している。自分も他人も能力を数値化したわけではないので優劣はつけがたいのだけど、主観的にそう思う。このように自分を認めることができるようになったのは大きな進歩だ。プライドなんか投げ捨てて、私は何もできません誰か助けてくださいと手を伸ばせる。甘えと紙一重ではあるので、自重する必要はある。でも25年かかってやっとプライドを捨てることができたのだから私はえらい。

復職する日付が決まった。こんなに何もできずおまけにメンタルも弱い私を必要としてくれる会社。気まずいし行きたくない。辞めるのはいつでもできるから、とりあえず1日だけがんばる。まだまだ少し先のことだけど。